「今を生きる」第290回   大分合同新聞 平成28年5月30日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(117)
 生命現象を生物学的に見ていくと、われわれが「生きている」ことの延長線上、将来に「死」があるのではなく、「生死一如」と仏教が教える考え方が、なるほど、もっともだと受け取れるのです。
 哲学者のフィヒテ(1762-1814)は「死は一つの仮象である。それはどこかにあるものではない。真に生きることのできない人にだけあるのである。死が人を殺すのではなく、死せる人間、生きることができない人間が死を作り出すのである」と指摘しています
 われわれの思考では明るい未来に向けて、明日こそ、来月こそ、来年こそと、未来に「幸せ」や「満足の世界」が得られるだろうと期待して頑張り、努力します。しかし、この考え方には問題点があるのです。
 一つは、未来に「幸せ」を目指せば目指すほど、「今」は「未来の幸せ」より相対的に「幸せでない」ということになります。
 二つには、「明日こそ幸せになるぞ、明日こそ幸せになるぞ」と、死ぬまで幸せになる準備ばかりで終わってしまわないかです。
 三つには将来の「幸せ」が目的で、今日はそのための準備の位置(手段、方法、道具など)になるのです。今、今日を手段・方法・道具として取り組むことは、目的が運よく達成されたときでも、後で考えてみると手段、道具のような一日は「使い捨ての一日だった」となってしまします。
 それは、仏教の指摘する「空過(くうか)」(人生があっという間に過ぎた、虚しい)になってしまいます。フィヒテの言う「真に生きる」とは、知足(満ち足りた、足るを知る)の一日になることが大事だと教えているのです。そのためには手段、方法ではなく、目的であるような一日を過ごすことが必要なのです。
 今日が目的のような生き方、受け取りをするためには、過去と今日の間を区切り、今日と未来を区切ることが大切です。仏の無分別知の智慧は、過去から未来への時間のなかで「今日しかない」と、今日が目的の一日のような生き方になるように導いてくれるのです。

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