「今を生きる」第291回   大分合同新聞 平成28年6月18日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(118)
 仏教は「今日しかない」と言って、「今の実感を大事にします」。そう言うと「明るい未来がある」ということをよりどころにして生きている多くの人は、戸惑われるでしょう。
 ガン末期であった知人から医療相談を受けたとき、「種々の治療に効果がないのなら、治癒させる方向ではなく、種々の痛みを取る緩和ケアの方が良いのではないか」とアドバイスしたところ、彼が言った「明るい方向が見えないということは、いたたまれないんよ」という言葉がとても印象に残っています。
 看護の世界で有名な村田理論は実存哲学者のハイデッカーの理論を応用していると思われます。それによると人間の存在は次の3つの力によって支えられている。
 それは(1)関係の力(関係存在)…自分を取り巻く多くの人や物によって支えられている。(2)時間の力(時間存在)…過去の思い出や未来の希望などで支えられている(3)自律の力(自律存在)…自分の力で自分の身の回りのことができているーということが生きる力になっているというものです。
 三つのうち今回は「時間の力」について触れていきます。病状が進むと、特に死を意識することは時間存在の明日や未来というものを期待することができなくなります。死が自分の存在を脅かすということで不安が引き起こされると考えます。
 仏教は明日や未来を期待するわれわれの思考を問題とします。仏教を学びながら70歳に近い年齢になると、職業柄同年代の患者さんや若い人たちの具体的な病や死に接することが多くなります。
 死がいつ自分の身に起こっても想定外ではありません。5年も10年も先のことを考えることは不確かで、それよりも一日、一日を大切にしなければという気持ちになります。
 人生経験を積むに従い、「明るい未来を」と考える傾向から「一日、一日を大切に」と変わってきています。どちらが物事をあるがままに見る視点だったでしょうか。仏教の生死一如(死に裏打ちされて生がある)の教えを知らされる歩みの中で、「今日しかない」「一日、一日を大切に生きよう」の視点の方が物事をあるがままに見ているとうなずけるのです。

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