「今を生きる」第292回 大分合同新聞 平成28年7月2日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(119)
インドで最も多くの人に使われているヒンディー語では、「私はあなたを愛しています」、という場合に、「今、私の中にあなたへの愛が起こって、私にとどまっています」という表現になっているそうです。
「私」という確かなものがあり、「心」という確かのものがあるとすると、「あなたへの愛」は継続していくはずです。
しかし、現実には継続したり、なくなったり、復活したりといろいろなことが起こります。「とどまっている」ということは、お互いに大切にしないと「なくなる」ということを表しています。
「ヒンディー語がしゃべれるのか」というときには、「あなたにヒンディー語が来て、とどまっているのか」という表現になるそうです。「私という存在は器である」と受け取った表現になっているのです。
私たちが日本語を普通に話せるのは、成長する過程で自然と日本語文化が私に来たって、記憶され、とどまって、それで自由に話すことができているということであると受け取れます。
仏教の縁起の法の内容とヒンディー語の発想に非常に似通ったものを感じることが出来ます。私たちの発想は国や地域の文化というものに大きく依存しています。その基礎文化が異質なものに触れると、大きな影響を受けることになります。
普段から自分の発想を、「これしかない」、「正しい」「私の発想が常識だ」と主張(絶対化)しがちですが、異質なものに触れることによって相対化されるのです。
外国語、外国文化、仏教文化、他の宗教に触れることによって、「これ以外は考えられない」、「常識だ」と考えていた思いが揺り動かされて、冷静に見直されることで、自分のよって立つ文化の長所、短所が見えてくるでしょう。
そのことは私たちの文化に多様性と柔軟性をもたらし、精神文化をより豊かなものに導いていくことになるでしょう。
南無阿弥陀仏と「念仏」することは、異質な仏教文化との接点で仏の智慧を憶念する場に身を置くことになり、仏の光に照らされ育てられ続ける歩みになるのです。
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