「今を生きる」第296回 大分合同新聞 平成28年8月27日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(123)
医療人を含めて一般の人は「死んだらおしまい」と言います。死んだら「この世の命は終わり」という心持でしょうが、死んだら「無」になるというニュアンスもあるように感じます。今の気持ちも無になるのなら、こんなに苦しいのであれば、「死んだ方が楽だ」と考えることもあるでしょう。
しかし、死後の世界はわれわれからすると「分からない」というのが正確なところでしょう。哲学者ソクラテスは「自分を含めてわれわれは、死が良いことなのか悪いことなのかを知らない。なぜなら、まだ死んだことがないからです」と言ったそうです。
確かにそうです。死ぬことが良いことか悪いかは人間には分かりません。知らないのだから、「死んだらおしまい」と知ったかぶりをしてはいけないということです。
一休禅師が読んだ歌に、「死にはせぬ どこにも行かぬ ここに居る たづねはするな ものは言わぬぞ」というのがあります。一休さんは、死滅して無になった訳ではない、ここに居る。しかし、尋ねられても声は出さないという心でしょう。「生」にあらず「死」にあらず、不生不滅の仏の世界「空」が詠まれていると解説されています。
仏教の言葉に「随(ずい)処(しょ)に主となる」があります。生きる死ぬにとらわれないで、今ここに生かされていることを精いっぱい生き切りなさいという意味です。
いついかなる場合でも、何ものにも束縛されず、自分に与えられた場所、時代、状況、役割、使命、仕事を「これが私の取り組むべき現実」と受け止めて、力の限り生きていくならば、何事においても、いかなるところにおいても、世間の渦に巻き込まれたり、翻弄(ほんろう)されるようなことはない。
その結果はどのようなものであっても、私の責任として背負っていきます。仏様どうか見守って下さいという爽やかな心境を生きることになるのです。そこには結果として「仏におまかせ」が実現できて、安心できる生き方になっているのです。
「死んでしまえばおしまい」にとらわれたり、主張するときは科学や合理的思考ではなく、科学主義、合理主義です。主義というのは一種のとらわれです。仏の智慧は、われわれの分別の思考に潜む、私の思考は正しい、間違いないというかたくなさ(煩悩性)を指摘するのです。
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