「今を生きる」第297回 大分合同新聞 平成28年9月10月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(124)
「死を超える」という発想は現代の日本人には分からないでしょう。それは、我々の発想が「われ思う、故にわれあり」の発想で思考しているからです。
これは有名なデカルトの言葉です。近代哲学はデカルトから始まるともいわれます。どうしてこの言葉が出てきたかというと、「この世で、最も確かなことは、何だろう?」、「この世で、全く疑う余地のないことは、何だろう?」と、デカルトは深く思索されたということです。
そして、この世のすべてが信じられないものであろうとも、「それを疑っている何者かが存在すること」は絶対的な真実なのだという結論を導き出したのです。
デカルトは、この言葉を「決して疑えない確かな真実」として、哲学の第一原理に据えたのです。
現代の日本人の思考は、欧州文化の科学的合理主義思考です。体は日本人ですが、思考様式は欧州人であるともいわれるゆえんです。日本に生まれた私の器に、日本語を使いながら欧州人の思考様式が入ってきて、とどまっているということです。
自我意識を確かなものとして思考を組み立てていく合理主義ですから、意識がないと思われる睡眠時や死んだ人の状態を客観的に認識して、死んだら「無」になると考えるのでしょう。
仏道の修行で瞑想(めいそう)をした人によって、われわれの意識に対する深い洞察がなされてきました。意識は確固たるものではなく、縁起によって生起するもので、無我、無常であるとの受け止めです。
仏の目覚めの思考は、私の思考の次元を超えている世界です。私の分別の思考から理解することはできません。しかし、仏の智慧から「私の在り様」の課題の指摘は的を得ているとうなずけるから、驚きを持って目覚めさせられるのです。心(意識)すらも因縁によって生起するという「在り様」をしているのです。死んで「無」になるのではく「死」は存在様式の変化が起こるだけという受けとめです。
生まれる、死ぬは仏へお任せの領域で、そこに「死を超える」道があるのです。
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