「今を生きる」第299回   大分合同新聞 平成28年10月10日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(126)
 仏の智慧の視点で死を正面から考え、死を超える世界を表現したものに良寛の言葉があります。彼が友人に宛てた手紙には「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるる妙法にて候」と書いてありました。
 仏教はいつでも、「今、ここを精いっぱい生きる」世界を実現させようとしているのです。今の「自分になりきる」ことの大切さを教えています。「天命に安んじて人事を尽くす」とか、「隋所に主(あるじ)となる」という言葉にその心が表されています。
 後者は中国唐の禅僧、臨済義玄禅師(?−867)が修行者に対して諭された言葉で、「随処に主となれば立処(りっしょ)皆真なり」の言葉に由来しています。
 いつどこにあっても、いかなる場合でも、何ものにもとらわれず主体性をもって自分になりきって行動し、力の限り生きていくならば、何事においても、いついかなるところにおいても道理の道に外れることはなく、いかなる世間の渦に振り回されることもないという意味でしょうか。
 あるスポーツがうまくなるためには、基本の練習を重ね、「上手にやろう」という意識を捨てて、反射的に自然の理にかなった動きができるようになって、日ごろの練習の成果を実践できることが大切だということです。結果として仏教の教える「無我」というか、「無心」に行動することが実現していくでしょう。
 無我とか無心というのは、分別による勝ち負け、損得、善悪の思いを超えて、「結果は仏へお任せ」という大きな心で臨むということです。そうすると結果がいかなるものであっても、「私の責任で、私が背負って行きます」、という心の落ち着きの揺るぎないものが生まれるのです。他へ責任転嫁するような愚痴は言わないのです。
 江戸時代の至道無難(しどうむなん)禅師(1603-76)の言葉に、『生きながら死人(しびと)となりて なり果てて 思いのままに するわざぞよき』というのがあります。
 死人になるとは、世俗の損得、勝ち負け、善悪に振り回されなくなる(世間的には死んだ状態と同じ)ことを言っているのでしょう。そうすると自然に、自由自在に道理に沿った行動をすることができるでしょうと言っています。

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