「今を生きる」第300回   大分合同新聞 平成28年10月24日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(127)
 以前(第290回)に、フィヒテ(1762-1814)の言葉で「死は一つの仮象である。それはどこかにあるものではない。真に生きることのできない人にだけあるのである。死が人を殺すのではなく、死せる人間、生きることができない人間が死を作り出すのである」を紹介したことがありました。
 日常生活で、われわれは事に当たって何か判断する時、私にとって善か悪か、損か得か、勝ちか負けかを考えます。われわれが善いもの、得になるもの、勝ちになるものを集めようとするのは、そうすることで自分の人生を充実したものにしたいという心が働いているからだと思われます。
 世間的には自分を充実させるものとして、良好な人間関係、経済的安定、社会的評価や健康等を考えます。しかし、それらは相対的なものですから、どこまで手にすれば満足することになるか分かりません。
 フィヒテの言う「真に生きる」とは、「足るを知って生きる」、「私は私でよかった」、「完全燃焼できた」、「生きてきてよかった」というような生き方だと思われます。
 三浦梅園の書に、「人生恨むなかれ 人知るなきを 幽谷深山 華自ずから紅なり」というのがありますが、最後の「華自ずから紅なり」は、私は私でよかったという「真に生きる」ことを表現した言葉と思われます。
 「真に生きる」ことのできない状態を、仏教では餓鬼、畜生と表現することがあります。餓鬼とは、いつも何かを取り込まないと満足できず、常に取り込もう、取り込もうとしている状態を示します。畜生は家で飼っているペットのようなもので、飼い主の顔色を窺いながら生きて、主体性が無い状態です。自らに由ってない、自由でない生き方です。「真に生きる」とは足るを知って、主体的に自由自在に生きることを示しています。自分に与えられた場を、「これが私の現実」と受け取れる人は、その場で精一杯生き切ることができるでしょう。あとは安心して「仏へお任せ」になるのです。

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