「今を生きる」第301回   大分合同新聞 平成28年11月7日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(128)
 NHKの宗教番組を長い間担当された金光俊郎さんが、「私とは何か、というとなかなか分からないが、私に成ることはできる」と、ある禅宗関係の人から聞いた言葉として言われたのが印象に残っています。
 仏教では、縁起の法による在り方を教えてくれます。それは私という存在は無数の因や縁が仮に和合して、「私という現象」として存在しているというものです。そして自由自在とは自らに由(よ)って在り、私自身の在り方に成り切ることなので、仏さんのことを自在人ということがあります。
 私に成るとは、あるがままの私に成るということです。縁起の法では時間的、空間的無量の因や縁によって私が形づくられているということです。同時に、私と私の周囲は切っても切れない密接な関係があると教えます。
 密接な関係性があるのに、われわれの自我意識は関係性を拒否しようとします。私が小学校4,5年から大学生のころまで、次のような不満を持っていました。
 それは、何で日本に生まれたのか。何でこんな時代に生まれたのか。何でこの両親の元に生まれたのか。何でこんな容姿に、こんな能力に生まれたのかというものです。自分の現実を引き受けていくのは難しいのです。
 社会人になってからも、なぜこんな上司の下(もと)で。なぜこんな部下を。なぜこんな組織の。こんな設備の病院で。なぜこの人は協力してくれないのか。なぜそんな批判を言うのかなどと自分の置かれた状況をなかなか受け取れませんでした。
 われわれは周囲の物柄を対象化して、自分の都合のよいものだけを集めることができると思っています。そして息の合った人たちと仕事をしたいとか。地域社会や家庭などでも、心の通じ合う関係でいたいと思っています。
 小学校低学年で自我意識ができてから約60年間ほどになりますが、振り返って見ても、自分の思い通りに実現したことがあっただろうか。一時的にそんな気持ちになったときもありましたが、決して長続きはしませんでした。なかなか思い通りにならないことを釈尊は「人生苦なり」と言い当てたのでしょう。

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