「今を生きる」第303回   大分合同新聞 平成28年12月5日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(130)
 仏の智慧に出遇うと、われわれの理知分別の思考がいかに浅くて狭いもので、それが迷いを繰り返していることを知らされます。そうは言って、ノーベル賞をもらうような人の知恵はすごいのではないか。仏の智慧と比べたら、どうなのか。そういう疑問も起こるでしょう。
 哲学者のハイデェッカーは、両者の違いを計算的思考と全体的(根源的)思考に分けて説明しています。計算的思考は物事を分析的に細分化して、観察、思考して物事の有り方をカラクリを計算するように解明して把握していきます。そして結果を使い、物事を思い通りに管理支配しようとします。
 科学技術の進歩で日本の戦後の復興、物の豊かさを築き上げた成功体験を持っていますので、計算的思考の科学技術への信頼は宗教的信仰に近いものをもっています。
 しかし、それらの思考は局所的と言われます。全体を細分化して局所的に理解把握して、それらを再統合するという方法で全体を把握しようとします。確かに工業生産などでは効果的ですが、不確実性を多く含んでいる人間の問題、人生全体を思考するには不向きかと思われます。それは客観的に把握できない領域が多過ぎるからです。意識や心の領域は未解明の部分がたくさん残っています。
 「人間とは、人生とは?」という大局的な問題に取り組み、思索するのは哲学、宗教の領域です。その思考は全体的思考といわれ、人間とはどういう存在か、人間に生まれた意味はあるのか、生きることの意味や物語はあるのか、死んでいくことの物語はあるのか、などと思索を深めるのです。
 具体的には「ものの言う声を聞く」という思索です。それは、人生で出会ったこの人は、この現象は、この現実は私に何を教えようとしているのか、何を目覚めさせようとしているか、何を演じさせようとしているのかと考えるのです。作家の吉川英治が「我以外皆師」の意に通じる思考であり、決して管理支配しようとはしない思考なのです。

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.