「今を生きる」第304回   大分合同新聞 平成28年12月19日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(131)
 現代社会は科学的合理思考を基礎にしています。十七世紀に起ったと聞いていますが、これは物事をしっかりと観察して分析的に考えて、客観性を尊重して、確かなものを組み立てながら理論を構築するものです。
 実験で再現性を確かめながら思考していきます。自然現象や物事の仕組みの理解を深め、その結果として農業生産や工業生産を飛躍的に向上させました。
 医学においても人間を解剖学、生理学、病理学として分析的に把握して、人間という存在を身体的に解明することで、病気の原因究明、治療方法の確立を進め、人間の願いである「健康で長生き」を目指してきました。
 このような科学的合理思考は、計算的思考と言い換えることができます。普段のわれわれの思考はこれに相当しますが、この思考の背後には無意識のうちに我見、我愛の煩悩が潜んでいるのです。
 煩悩に汚染された思考で現実を理解把握し、それを自分の思いに近づけたいという願望を持って計算するのです。つまり善悪、損得、勝ち負けを考えて自分に有利なように管理支配しようとするのです。
 日常生活で苦を感じるのは、思い通りに事を運びたいのにうまくいかない、想定外のことが起こった、自分に不利なことや面倒なことに直面したなどの現実に対してです。
 われわれの自我意識は戦後の高度成長という成功体験もあり、あらゆることの仕組みを科学的に解明し、自分の思い通りに管理支配したいという欲(我見、我愛)を持っているのです。「欲そのものが私である」と言ってもいいくらいです。
 しかし原子力発電の問題では「人間の知恵を尽くしていけば管理支配できるはずだ」という計算的思考は「現実は想定外の状況になってしまったではないか」という問題に直面しています。
 人間に生まれたら必ずやってくる老病死の現実も、人間の知恵で管理支配できるはずだと考えてきた歴史がありますが、今後もそのような思考を追い求めていくでしょうか?

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