「今を生きる」第309回   大分合同新聞 平成29年3月13日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(136)
 禅宗では「今、ここで生きる」ことに徹しなさいと教えているようです。そして、未来の「死」などは考えずに、「今しかないことに目覚めなさい」と教えています。
 仏様の心は、「一瞬一瞬を大切にして、あなたが生かされていることの役割を精いっぱい果たしなさい。それ以外にあなたの存在意義はないのです」ということです。
 他の人が時めいているのがよく見えて、目移りするかもしれませんが、きょろきょろと好奇心を働かせて小ざかしく生きる傍観者の人生は、それは生きても生きたことにならない、むなしいものになりますよと教えているのです。
 「今を精いっぱい生きている人には『死』はない」という哲学者フィヒテの言葉に通じます。死がないというのは、今生きている、生かされていることに目覚めた人は、その役割を果たすことが人生で一番の関心事になるからです。
 禅の言葉の「随処に主となる」は、「そのとき、その場になりきって余念なければ、そのまま真実この上ない人生であり、自在の働きができる」という意味で、この心に通じると思われます。
 「生死一如」というように「生」には「死」が裏打ちされているから「生」の意味(有り難い、貴重である、輝く)が存在するのです。そして、生きること、死ぬことは仏の領域であって人知の及ばないことと自覚して、「死は仏にお任せ、南無阿弥陀仏」と仏に乗托して生きることになります。
 キリスト教の言葉に「生きているうちに死んだ人は、死ぬときに死なない」というのがあります。真理を表現している言葉です。
 生きていることに徹する(精いっぱい生きる)とき、「死ぬこと(心配)」に振り回されなくなって、結果として世間的な生死(迷い)を超えるのです。それを「生きているうちに死んだ」と表現しているのです。そして、仏の無量寿にお任せの世界を生きる時、不老不死の世界を(質的に)生きることに導かれるのです。

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