「今を生きる」第315回   大分合同新聞 平成29年6月19日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(142)
 前回の若者と有名な仏教者の「生きる」「死ぬ」にまつわるエピソードの続きで、仏教者が仏法について説いています。
 仏教者に石炭を使って毎日線路を行き来する機関車は生きているのかと尋ねられた若者は「機関車は生きとらへん。あれは機械や。生き物のようやけど鉄の塊や。蒸気機関車は生きとらへん」と答えました。
 それを聞いて仏教者は大喜びです。「お前は偉い。よくわかっているやないか。大事なことをわかっているやないか」と褒めて、こう言います。
 「お前も朝、昼、晩と三度のご飯パクパク食べて、毎日だいたい同じようなことをしてるやろ。休みの日には昼まで寝て、それから映画でも見に行くというような生き方をしているお前が、蒸気機関車とどこが違うか教えてくれ。同じじゃろ。お前も動いてるけど、生きとらへん。そういう人間を死んでる人間と言うのや。そのような人間を生き返らせてくれるのが仏法や。分かったか」…。このような対話が残されています。
 仏教者の「動いてるけど、生きとらへん」という言葉は、生きることの質を考える上で大切な要素です。医師で作家の加賀乙彦氏の著書に「死刑囚と無期懲役囚の心理研究」があります。その著書で、死刑囚はいつも残された時間を「今日、一日しかない」と惜しむかのように過ごしているが、無期懲役囚は生き生きとしてなくて、傾向として「生ける屍(しかばね)」のような生き方をしていると表現しています。
 生きている時間を量的にいかに延ばしても、今、今日をしっかりと精いっぱい生きることに徹せず、頭の中が持ち越し苦労、取り越し苦労で振り回されてばかりいるようですと、生きても生きたことになりません。これを「空過流転」(空しく過ごして移り変わっていく)といいます。仏教では最も大きな罪を「空過」と教えます。自分の生き方も質的にそうなってないかと問われる思いがします。
 世界の本体はすべて物質であり、精神的なものもすべて物質に還元できるという考えに「唯物論」があります。現代の私たちは、近代科学が提示する唯物的世界観を受け入れ、信仰してきました。そのような考えでは、世界はすべて物質に還元でき、生命を構成する物質が集積したときに「生」があり、それが分散したときに「死」があるとなります。「生きている」ことに意味はないと考えるのです。そこには、質を問う根拠などどこにもありません。

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