「今を生きる」第316回   大分合同新聞 平成29年7月3日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(143)
 私たちが「死」ということを考える時、「死んでしまえばおしまい」とか「死ぬことはかわいそうだ」という素朴な感情があるのではないでしょうか。そのために医療者側は、「老病死はあってはならない。患者を元気で健康な『生』の状態へ戻す」という考えで治療に臨みます。
 「老いて、病んで、死ぬこと」を「若くて、健康で、元気に生きること」に対するマイナス要因だと考えると、老病死は不幸を完成するということになります。「大分県人120万人はみんな、最後は不幸の完成で人生を終わる…」となると決して誇れることではないでしょう。
 私たちは普段、若々しくて元気がいい、健康で生き生きしているのがいい、長寿がいいと考えて生きています。不老不死は人間の歴史上では求めてやまない果てしない夢でした。夢を実現した人はいないのですが、世尊(釈迦)の悟りの言葉は「われは不死の法を得たり」であったと伝えられています。ただ世尊自身も亡くなられており、人間で死を免れた人はいないのに、どうして不死などと言われたのでしょうか。
 これを考えるヒントとしてイスラエルの宗教哲学者マルチン・ブーバーの著作「我と汝」があります。この本の内容を説明するために次のような例えがあります。
 米国で仕事をしたり、旅行をしたり、生活をした経験のある100人に、「米国とはどんな国ですか?」と質問するとします。そうすると、人それぞれ見方が違うため、問われた人の数だけの米国像の答えがでます。しかし、それとは別に、人の見方によらないもう一つ本当の、真実の米国があるともいわれます。百人百様の米国像とは別の真実の米国があるというのです。
 一方ブーバーは、「人間の思考態度で世の中の見え方が二つの世界に分かれる」と指摘します。どういうことかと言いますと、一つは「渡る世間は鬼ばかり」と考えて周囲を見る見方です。もう一つは「渡る世間は菩薩ばかり」「我以外は皆、師である(吉川英治の言葉)」と受けとる見方です。前者は自己中心的に周囲を善悪、損得、利用価値の有無などで分別する見方です。後者は理知的に「物(事象)の言う声を聞く」という見方です。見方を変えることで、老病死の受け取りにも大きな変化が起こるのです。

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