「今を生きる」第317回   大分合同新聞 平成29年7月17日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(144)
 「渡る世間は鬼ばかり」という見方は、言ってみれば日常生活における私たちの思考様式です。個人差はあるでしょうが、説明しなくても分かると思います。まず疑って考えていくというのが、「理性・知性・分別」の思考の根底にあります。強いて言えば物事を三人称的(私と切り離し、関係ない第三者の存在として)に距離を置いて「これはいったい何者か?」と見ることでしょうか。
 「家族や友人を見る時は違う」という声が聞こえてきそうですが、それはどうでしょうか。
 外国の地下鉄でテロがあって多数の死傷者がいるというニュースを聞いて心配で眠れなかったという人は、その国に縁者がいる人だけでしょう。それ以外の人にとっては、どうしても人ごと(三人称的な意味)になります。物事を客観的に見て、合理的に考えるという思考と似ています。これが現代日本人の発想と言っていいと思います。
 これとは逆に、理解が難しいのが「渡る世間は菩薩ばかり」です。菩薩は迷える衆生(私を含む)を身内のように大悲されて(悲しまれて)、何とか救おうと心を働かせる存在です。親がわが子を思う心に例えることができます。前出の表現でいうと、二人称的(切っても切れない関係)に見るということです。
 遠くにいても、いつもその人を気にかけている。近くに行く機会があれば様子をうかがい、声掛けをしようという密接な関係で「親しき友よ」と言い合う間柄です。これは仏の智慧の世界に通じています。
 「この友は私に何を願い、何を教えよう、気づかせようとしているのか」。「この事柄は私をどう支えようとしているのか。守ろう、育てよう、生かそうとしているのか」と受け止めるのです。菩薩がいろいろな姿、形になって私に迫り、「友よ、小さなとらわれの殻を出て、大きな仏の智慧の世界を生きよ」と、私を目覚めさせようとするはたらきを展開しているのです。
 妙好人(みょうこうにん、仏教に目覚めた人)の浅原才市の言葉に「浄土はどこだ、ここが浄土の南無阿弥陀仏」というのがあります。念仏する時、仏の世界を深く思う場を頂き、仏の働きを感得して(感じ取って)、仏の智慧の視点へ導かれるのです。

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