「今を生きる」第318回   大分合同新聞 平成29年7月31日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(145)
 家族と同居していたおばあちゃんが病院へ入院したが、治療の甲斐もなく亡くなった。これは、おばあちゃんに可愛がっていた小学校1年生の女の子と父親の会話です。
 女の子「お父さん、病院は病気をよくする所でしょう」。父親「そうだよ」。女の子「それなのに、どうしておばあちゃんは死んだの」、「おばあちゃんが悪かったの」、「看病した私たちが悪かったの」、「それとも病院が悪かったの」。父親「……」。
 「どうして死んだの」という質問に、医療関係者は「進行がんで今の医学では治療できなかった」と、病名を出して説明するでしょう。もしお釈迦さんに同じ質問をすると「人間に生まれたからだよ」と答えるだろうと多くの仏教者、仏教学者は考えます。
 医療者の答もお釈迦さんの答も両方とも間違いではないでしょう。しかし一般的には、質問に対する正しい答えは一つであることが普通です。私が「医療文化と仏教文化」と題して書かせていただいているのは、医療も仏教も共通の課題、生老病死の四苦に取り組んでいることを念頭においているからです。
 同じ人間の生命を考えているのに、医療者と仏教者で(死亡原因に)違った答えが出るのはなぜでしょう。二つの答えがあるのは医療者と仏教者の「人間の生命(いのち)」を考える視点が違うからでしょう。
 医療者は生命現象を客観的に観察して、身体の構造や健康を維持する働き、病態、薬剤の効果などの知識生かして治療をします。それは、体を健康な状態に戻し、維持できるようにしようと努めようという視点です。そこでは、生命現象を終わらせるのは病気や外傷などです。それで、死因となった病名を説明するのです。
 一方、仏教では「人間とは?」、「人生とは?」という大きな視点で人間の在り様を見ます。よって答えが違います。それは医療者と仏教者の視点の違いであり、生物学で観察した医療者の客観的な所見を否定するものではありません。

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