「今を生きる」第325回   大分合同新聞 平成29年11月13日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(152)
 医療の世界では「死んでしまえばおしまい」と考え、老病死はあってはならない、元気な「生(せい)」の状態(健康)へ戻そうとして治療します。それが救命・延命につながっています。
 私たちは自分の死を意識することはできません。生まれたことも意識にはありません。物心がついて自我意識が発達した時に、生まれたことを意識するのです。奇妙なことに私たち人間は自分の意識で、生まれることや死ぬことを知ることができないのです。
 お釈迦(しゃか)さんは悟りの言葉として「不死の法を得たり」と言われたとされています。私たちの意識では、死後の世界を客観的に理解することはできません。だから、現代の日本人の多くは死後の世界、極楽(浄土)、地獄の世界を信じることはできないのです。それが「私は無宗教です」という発言に結び付いていると思われます。よき師を通して仏教に出会うまでは私もそうでしたから、その考えはよく分かるのです。
 しかし、仏教に触れるようになってから、死後の世界が分かるようになったかと問われれば、依然として「分かりません」と答えています。それなら「どうして医療と仏教の協力」に取り組んでいるのかと問われるでしょう。
 ただ仏教の教えを頂くようになってから、「人間とはどういう存在か」「人生にはどういう意味があるのか」という本質的な人間の在りよう、人生の物語を考えるようになりました。そして、それまでは当たり前だと思っていた自分の考え方、特に科学的な合理思考が絶対ではない、相対的なものであることを知らされたのです。そして「死んでしまえばおしまい」と言うのは独断であり、むしろ「死後は分からない」と言う方が正確だと思えるようになったのです。
 それは例えれば、給与日が近づいたサラリーマンが財布の中を見て「たった一万円しか残ってない」と思うか、「まだ一万円もある」と考えるかという違いでしょうか。分別に振り回されて一喜一憂するか、ちょっと距離をおいて、心を冷静にして仏の視点で思考するかの違いといえるかもしれません。

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