「今を生きる」第326回   大分合同新聞 平成29年11月27日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(153)
 私たちの思考は、いつも自分にとっての善悪や損得、苦楽、好き嫌い、勝ち負けを小賢しく計算しながら行われます。これが世間における常識的な分別による思考です。
 これは仏の思考に対して人間の思考と言われます。仏から見ると、それは四苦八苦の苦しみに耐えながらの自由のない世界、娑婆(しゃば)、堪忍土(かんにんど、堪え忍ぶ場)だと言います。
 それに対して「私は自由に、人生を楽しんで生きている」と言う人もいるでしょう。そう言える人は恵まれた人ということができます。しかし、仏の目から見ると私たちは「魂(注釈)」の病気を患っているのを見透かされているのです。それは医師が患者を診察して、本人に病気の認識がなくても病気の診断を下すことに似ています。
 仏は私たちの生き様を見て、「餓鬼症」と言う病名を付けるでしょう。私たちの内面にある「足りない」「求める」「欠乏感」「承認欲求」などの症状を見通すことができるからです。
 仏教の教えを記した経典によると、阿弥陀仏は修行中は法蔵菩薩と呼ばれていて、世自在王仏という如来の指導を受けて、仏の智慧を頂き仏様になられたといわれています。大学で医学生が医学を学び、卒業後に現場で研修を受けて医師になるのも同じようなことです。
 病院は医療従事者が病気の診断をして、習得した医学知識や医療技術を総動員して治療に取り組んでいます。病院とは医学的知識を治療に生かしている場所です。
 浄土は仏の世界であると同時に、悩める衆生を仏の智慧の働きで救うところです。魂の病気を患っていることを私たちに気付かせ、正気になるよう働きかけているのです。
註;仏教では魂というような固定したものはないといわれ、「無我」と表現します。文中では便宜上、意識、無意識など心の奥底を含めた意識の全体を表す言葉として魂を使用しています。

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