「今を生きる」第327回   大分合同新聞 平成29年12月18日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(154)
 浄土とは仏の働きの場とされます。ですから、煩悩を抱えた生身を持つ私が「今、浄土にいる」と言うことはできません。しかし、仏の働きや智慧を感じながら、この世を生きて行くのが仏教者の生活です。智慧とは本来の姿をあるがまま、大局的に見る視点です。
 東本願寺(京都府)が発行する同朋新聞の2015年9月1日号に、作家の高 史明さんの談話が掲載されていました。その談話は次のような内容です。
 ある日、中学生の女の子が、今にも死にそうな面持ちで訪ねてきたんです。私は困ってしまいましてね。死ぬと言っている子に対して、死んでは駄目だと言っても、口先のことになって相手に何も伝わりません。ですから私は言葉に詰まってしまいまして…。
 それで、「ここ(頭)が死にたいって言っているのか」と聞いたら、「そうだ、決まっているじゃないか」と言うので、とっさに、「君が死ねば、手も足も全部死ぬんだ。どうしても死ぬのなら、長い間ずっと君を支えてくれていた足の裏をきれいに洗って、へのへのもへじを書いて、はだしで土を踏んで、そして足の裏に死んでもいいかどうか聞いてみなさい」と言ったんです。
 女の子は何かを感じてくれたのでしょう。実際に、そうやってみたんだそうです。そしたら、死んではいけないということが身に沁みて感じられてきた。その後、元気にやっていますと手紙がきましたーというものです。
 仏様の眼から見れば、私たちは頭でっかちで「魂の病気」を患っているのです。自分の身体全体を成り立たせている全体をよく見ないで、煩悩まみれの目で自己中心的にゆがめて、物事を表面的にしか見ていないように思われるのです。
 「人間とはどういう存在か?」「人生とは?」という大局的な視点で考える時、私たちが日常生活で頼りにしている理知分別による視点に比べ、仏の智慧の視点の方が全体をあるがままに見ていると思われるのです。

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