「今を生きる」第329回 大分合同新聞 平成30年1月29日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(156)
念仏には、仏様のことを念ずることと「南無阿弥陀仏」と仏の名前を声にだして称(とな)えるという二つの意味があります。ご縁があって僧侶になった在家(お寺の出身ではない)の人が、「僧侶になるまでは念仏は仏にお願いごとをする時に唱える呪文だと思っていた」と言われたことがありました。仏教の縁が薄い現代人がそういう先入観を持つことは仕方がないのかもしれません。浄土教の念仏は決して呪文などではありません。
仏教の経典では念仏について「仏が『臨終の時に、私の名前を称(とな)えなさい』と呼び掛けたので、それに応えて称(とな)えた名前(念仏)です。念仏には(1)仏やよき師・友のことや仏教の言葉を思い出す働きの憶念(おくねん)(2)仏への思いが持続する念持(ねんじ)(3)世間に振り回されがちな私に仏の世界を忘れないように働く不忘(ふぼ)の三つの功徳があります。
さらに、私を仏の働きの場に連れ戻すという功徳があります。世間を生きる私は世事にかまけて振り回されやすいので念仏が私の生きる姿勢を仏の智慧に添うように正すという働きをするのです。
念仏をして、その声を自分で聞いて仏の心に触れるのです。その結果、仏の働きの場に身を置くことになります。その時、仏の働きを受けて仏の智慧の視点に転じられるのです。
日常生活でさまざまなことに遭遇した時、そのことは自分にとって善か悪か、損か得か、勝ちか負けかなどと考えがちですが、仏の視点では「この事象や現実は私に何を教えようとして、何を気付かせようとしているか」と考えていくのです。前者の思考は起こった事に振り回されることが多いのですが、後者の思考を日常生活に加えることで少しだけ冷静に考えることができるのではないでしょうか。
事件や事故の話題を扱う三面記事(社会面)を傍観者的に批判するのではなく「私も縁次第では事件を起こした人と同じ立場になったかもしれない」と、学ぶ姿勢で読むことは仏の智慧の視点を日常生活に取り込むことになります。
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