「今を生きる」第332回   大分合同新聞 平成30年3月12日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(159)
 入院中の子どもに「死んだらどうなるの?」と聞かれて、付き添っていた父親は「死ぬなんてばかなことを考えるんじゃない。お医者さんもよくなると言っていたから、しっかり養生することを考えなさい」と答えたそうです。しかし、その後も繰り返し聞くので同じように答えていたが、そのうち根負けして、「死んだら、おじいちゃんやおばあちゃんの入ったお墓に入るんだよ」と言ったそうです。その後に子どもの病状が進み、亡くなったのです。
 そのことがずっと気になっていた父親は、法要の時に子どもとのやりとりを住職に説明して「お坊さんだったらどう答えますか」と質問されたそうです。尋ねられた僧侶は、「私なら『死んだら、おじいちゃんやおばあちゃんの待っているお浄土へ往くんだよ、また会える。だから、南無阿弥陀仏と念仏を称えましょう』と言ったでしょう」と答えたそうです。
 この話を聞いて1945年に広島に投下された原爆で被爆し、家に戻ってきた長男のことを書いた山本康夫師の「幻」(「中国文化」創刊号、1946年)の記事を思い出しました。以下その文章です。
 ピカドン(原爆投下)から2時間後だった。当時、広島一中の1年生で爆心地近くの疎開作業に動員され、閃光を浴びた長男の真澄が広島市内の家にたどり着いた時、髪はすっかり焼け、顔はぶくぶくにやけどして、少年の本来の面影はなかった。「直感といふものがなかったら恐らく吾(わ)が子であることを否定したであらう」と。
 母の紀代子さんは、驚いて真澄に駆け寄り、ただはらはらとした。焼けたパンツをはさみで切り、ボロボロに焼けたゲートル(脚半)を解き、床に寝かせる。真澄はしきりに水を求め、夜の11時ごろ、かすかな息をしながら突然に「本当にお浄土はあるの?」と質問した ギクリと、その言葉がどれほど鋭く父母の胸に突き刺さったか。「ええありますとも、それはね戦争も何もない静かなところですよ、いつも天然の音楽を聞くようなとても良いところですよ」。母は必死に説明した。
 真澄はそれに恍惚(こうこつ)と聞き入り、「そこには羊羹(ようかん)もある?」と、無邪気な問いを発した。「ええ、ええありますよ。羊羹でも何でも……」。答える母の声は、半泣きになっていた。「ほうそんなら僕は死のう」と、真澄は言った。父はため息も出ず、母は石のように黙した。少年は、もはや水も求めずに、口の中で念仏を称えていたが、真夜中の12時、静かに息を引きとった。

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.