「今を生きる」第333回 大分合同新聞 平成30年3月26日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(160)
死の前後を「周死期」と表現されます。私たちの思考では人間の死の変化を観察することはできても、意識の死や死後のことについては分かりません。
私たちは理知(理性や知性)による「分かる、分からない」という分別を判断の中心に据え、いつの間にか、それをよりどころとして生きています。多くの人がこの理知を極めていくことが人間としての理想だと考えています。
私も若い時はそうでした(今でもその傾向がありますが…)。しかし、仏教の智慧との出合いは、「この考えしかない」と絶対化していた思考を「この考えはいろいろある中の一つだ」と相対化できるようになりました。これは大きな変化です。
宗教と哲学の関係を哲学者の大峯顯(大阪大学名誉教授)は著書「科学技術時代と浄土の教え」で「宗教は私たちのどのような哲学的反省も届かない深いものだということです。なぜ如来(仏様)に救われるかは、人間の理知で分かりません。私たちが如来に救われなければならないというのは神秘です。お浄土も神秘です」と述べています。
さらに大峯は「お浄土と簡単に言いますが、誰もお浄土を見たことがないのです。でも、お浄土に生まれて仏になるのは真理です。人間の理知では分からないだけなのです。(科学的に)理由付けをして納得できるものは宗教と呼べません。私たちがそれを聞いたら、深く安心できるようなもの、そういう世界が宗教です」続けています。
仏教は世間の思考と異質な世界です。仏教の智慧の世界は私達の(論理的思考による)常識の世界の限界を示し、相対化するのです。
仏の智慧は周死期で壁にぶっつかっている人のそれまでの思考に質的な転換をもたらします。生きている時間(寿命)の長さにとらわれていたのが、今この瞬間に、南無阿弥陀仏ととなえることで、仏に通じるご縁をたまわります。「足るを知る」世界に導かれ、感動の時間をたまわります。そして自然に生死の問題は仏へお任せして、理知で判断する量的世界への執着を超えるのです。
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