「今を生きる」第334回   大分合同新聞 平成30年4月9日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(161)
 ある哲学者の「宗教は価値の世界ではなくて意味の世界」という言葉に出合ったとき、私は「知恵」と「智慧」の使い分けについて、すっきりと整理ができました。それは、知恵は世間的で「ものの表面的な価値を計算する見方」、仏法の智慧は「ものの背後に宿る意味を感得する見方」との説明に通じます。
 同じことを、ある哲学者の思索で説明できます。それは、人間の思考は計算的思考と全体的(根源的)思考に分けることができるーというものです。
 計算的思考は事物や現象に対する「いかに、どうやって(英語のHOW)」という疑問を解明するときに使います。物事の仕組みやカラクリを分析して、その結果を統合して管理しようとする思考です。
 全体的思考は「なぜ(英語のWHY」の意味を問うのに、分析的ではなく全体的に見ようとするのです。「ものの言う声を聞く」という姿勢です。この現実は私に何を教えようとしているか、目覚めさせようとしているのかと受け取って、その内容については管理しようとしない態度です。人間として生れた意味、生きる意味を考える仏教的思索に近いと思われます。
 医療は患者の病態を把握し、最新の知見や治療法を駆使して健康で長生きできるようにと管理してきました。その結果、日本は世界に誇れると長寿社会を実現しましたが、昨今は命の長さだけではなく、質が問われるようになってきました。欧米では「患者の生活の質が改善しない」と判断され、20数年前に止めたような処置を日本では続けているという現実があります。それは国や地域の命に対する文化の違いなのでしょう。
 価値を考える場合、数字で表せる「量的な尺度」は、私たちの五感に訴えかけるので分かりやすいです。ただ、生命や生活の質を考えるとき、質の領域の基準は一人一人の精神生活の深さによって違ってきます。表面的な快適さや便利さ、感触の良さに基づいて決めるのと、人間に生まれてよかった、生きてきてよかったという精神生活に力点を置くのでは、生き方の選択が違ってきます。客観的に示せない意味や質的な内容は評価の対象として扱うことが難しいのです。

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.