「今を生きる」第335回   大分合同新聞 平成30年4月23日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(162)
 昔、研究者が米国アラスカ州北部の先住民の生活を研究するために、現地で数週間一緒に生活をしながら日常生活の実態を調査した際の話です。
 調査が終わりに近づいたころ、先住民の長という人が「あなたは魂の話は何もしないのか」と研究者に問いかけたそうです。研究者が日常生活の表面的なことばかりに関心を示し、先住民の精神生活に深く踏み込んだものを調査しなかったと見られます。先住民の長は精神生活に関心を示さないことを不思議に思い、質問したのでしょう。
 仏教では魂という固定したものはないと考えますが、心の奥底で、私を私たらしめているものを魂と表現することがあります。
 世間での知恵は、能率や効率を考えながら仕事の段取りを決めたり、生活に必要な買い物は無駄がないよう品物や店を選んだり、互いに良い関係が維持できるように職場や地域での人間関係に配慮をしたりーと、私たちは「物の表面的な価値を計算する見方」で考えます。
 食物の確保や便利さ、都合の良さ、快適さ、健康の管理などに関心を示すだけでは、先住民の長が指摘した魂や精神活動に触れることがないまま調査は終わるでしょう。
 私たちは異質なもの(例えば仏教文化)に触れないと、自分の日常生活の眼先のもろもろに取り組むことで精いっぱいになり、気付けばあっという間に年を重ねてしまうのです。「生きる事に意味はあるのか」なんて暇のある人がすることで「私は生きる事にがむしゃらで、仕事をして、夜に晩酌をして気持ちよく眠れれば、それ以上何が必要ですか」−となりがちです。
 人間がふと真面目に生きることを考えることになるのは「飼っていたペットの死」、「子どもが巣立って家からいなくなる」、「自他の老・病・死に直面する時」と聞いたことがあります。日常生活に振り回されている私たちに心の内面の空白さがこのようなことをきっかけに「君はこれで良いのか」と呼びかけているのです。
 このような時には、一歩先だって仏の世界に感動した師や友の呼び掛けで、心の内面性の縁が熟していき、深い精神生活や、心の目覚めへと導かれます。

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