「今を生きる」第341回   大分合同新聞 平成30年8月6日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(168)
 昔あった甲子園(高校野球)の中継の話です、サングラスをかけたアナウンサーが、晴天にもかかわらず「今日は、どんよりとした雲に覆われています」と言いました。隣の解説者からマイクに声が入らないようにサングラスを指さされると、その後に「雲も次第になくなり、晴れてまいりました」と修正したというエピソードを聞いたことがあります。
 私たちはこのサングラスのエピソードのように世の中を色眼鏡を掛けて見ている可能性があるのです。
 日本人として育てられ、義務教育を受けて、人によっては高校、大学へと進みます。その中で合理的思考ができるように教育されてきました。
 日本では「常識的な人」というのが一種の褒め言葉になるようなところがあります。
 そういう私たちの在り方を、仏は「汝(なんじ)は凡夫(ぼんぷ)なり」と指摘しています。凡夫とは「異生(いしょう)」ということで、元々の意味は「本来の喪失」だそうです。「本来性を失った人間の在り方」ということでしょうか。
「私たちは誰にも教えてもらっていないのに『幸せ』を目指して生きている」−とあるギリシャの哲学者が指摘しています。
 その時どきの思考(分別)で、幸せのためのプラス条件を増やし、マイナス条件を減らす方向を目指して努力します。
 しかし大学生の時、仏教の師は、「その発想は分別という殻の中の思考だ」と指摘されて、一瞬の驚きと戸惑いを覚えたことが思い出されます。
 それは自己中心的な分別という殻の中の思考で、言ってみれば色眼鏡で見ているようなものだと指摘されたのです。
 仏教の智慧の世界を学ぶ中で、その指摘をされて以来、そのことがはっきりとしてきました。
 仏教という異質な世界に触れて初めて気付かされるのです。「汝は凡夫なり」という言葉の背後に宿されている仏の心に触れて自分が色眼鏡で見ていたことをはっきり自覚すると、「あるがままをあるがままに見ていない常識」という「本来性の喪失」を知らされます。
 私たちの常識では「死んだらおしまい」と考えていましたが、仏教ではそうではなく、「往生浄土して成仏(仏になる)する」と教えています。

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