「今を生きる」第342回 大分合同新聞 平成30年8月20日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(169)
現代人の多くは「死んだらおしまい」と思っています。科学的思考(唯物論的思考)で身体を重視する日本人は、身体は火葬されることで分子レベルに拡散してしまい、意識も全く活動しなくなるのでそう考えると思われます。
今回は仏教が教える「生まれる物語」と「死んでゆく物語」を説明したいと思います。
キリスト教では「神(創造主)が人間の創造した」と言っています。一方、仏教は創造主という発想はしないで「縁起の法」を説いています。
縁起の法は、人間は無量、無数の因や縁が和合して生まれ、生きていると教えます。
縁起の法は約37億年の歴史を持つ生命の歴史に対して、「なぜ生まれたのか」という起源は説明できませんが、生命の営みの最先端に私たちの存在があることは説明できます。創造主による誕生よりも科学的思考と整合性があります。
仏教は時間的、空間的に無量の因や縁、そして連綿と続く遺伝子などの和合によって、今、ここに私は存在していると考えます。
人間は成長すると、必ず自我意識というものを持つようになります。仏教ではその心の大本を「識(しき)」と呼んでいます。
釈尊の目覚めの内容として大乗仏教の瞑想(めいそう)から生まれた深層心理学で、仏教の基本の考え方に「唯識」があります。
個人にとってのあらゆる存在が、唯(ただ)、八種類の「識」によって成り立っているという見解です。
八種類とは、視覚や聴覚、嗅覚、味覚、触覚といった五種の感覚と、意識、さらに二種の無意識(末那識、阿頼耶識)のことです。
阿頼耶識は蔵識(ぞうしき)とも言われ、過去の経験の蓄積といえます。遺伝子は人間を構成する部品のカタログ集で、その法則(組み立て方など)が記されていると理解するとよいと思います。
人間は受精して母体に宿り、細胞分裂を繰り返す中で臓器が形作られ始めた時から血液循環が始まり、生まれて外界との接触することで無意識に呼吸をはじめます。このような生命活動の法則は遺伝子に記録されています。
しかし、私たちはすべてを遺伝子に支配されているのではなく、外界の事象に触発されて(後天的に)千変万化していく無限の可能性を秘めています。
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