「今を生きる」第344回   大分合同新聞 平成30年9月24日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(171)
 生物学や産婦人科学で人間の生まれる仕組みは解明されてきて、治療に応用されて不妊症などに悩む人の福音となっています。
 生れる機序が解明されても、「なぜ(why)、人間として生れたのか」という問いには答えることができません。この人間に生まれた意味、意義を考えるのが哲学・宗教です。唯物論的に「生まれたことに意味はない」という思考から、哲学・宗教によっては、人間に生まれた意味を神話的にいろいろ教えてくれるようなものまであります。
 しかし、全ての人を納得させる普遍的な意味や物語(いのちはどこから来て、どこへ行くのか?、どう生きるのが正しいのか?、死んだらどうなるのか?)は見い出されていないようです。
 「あなたには、生きる意味が分かっていますか」と問われれば、そうでないことも沢山あります。宇宙などに関しても、人間の知恵によって解明されているのは約5%ぐらいであろうと多くの専門家が言っています。
 約20年前に、某大分大学名誉教授が本(題名は記憶にない)を出版したという紹介記事が本紙に掲載されていました。その内容が印象深かったので今でも覚えています。
 それは、「昭和42年頃の学生紛争が激しかった頃、問題のある学生に『今あなたがしていることを見たら、ご両親が悲しむのでは』と聞いたところ、『私は両親の快楽の犠牲者だ。だから親には何の恩もない』と答えました。そういう事もあって、今回この本を書きました」というものでした。
 「親が勝手に産んで、私は被害者である」という意味でしょう。命も物として考える科学的合理主義から出てきた発想と思います。
 自分の人生の出発の意味を見い出せなけでば、「生きる意味」を見出すことも難しいでしょう。せいぜい「利用できるものは何でも利用して、人生を楽しまなければ損だ」と考えるくらいです。そして「死んでしまえばお終い」と考える人生は虚しさ、寂しさを免れないように思われます。

 参考資料:2003年3月5日(夕刊)大分合同新聞紙面。大分大学名誉教授安東利夫(73)さん「小さないのちの育て方―受胎から幼児期までー」(日本教文社、千四百円)を出版した。
 その紹介記事の中で、1930年臼杵市で生まれ大分大学学芸学部で心理学を学んだ。(前略)助手だった1968年、生活態度が気になった学生の一人に「君の姿をご両親はどう見るだろうか」と諭したところ、「自分は親の快楽の犠牲者で、父母には何の恩もない」と学生が声を荒げた。言葉を返せなかったという。(後略

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