「今を生きる」第345回 大分合同新聞 平成30年10月8日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(172)
ある高校生が父親と口論になった時に「頼みもしないのに親が勝手に産んだ」と言うと、父親は「撰べるものなら、おまえみたいな文句を言う子を生まなかった」と言い返したそうです。まさに父親の言う通りで、親は子を選べません。そして、子も親を選ぶことはできません。人間が生まれて生きるとは、親子ともに思い通りにならない現実の中を生きていかざるを得ないのです。
命が生まれる過程は科学的に解明できても、生まれた意味を問う「なぜ」には、全ての人を納得させる答えはないようです。その課題を思索するのが哲学と宗教と思われます。
人生の出発(誕生)において潜在的に被害者意識を持っていると、その後の人生に主体的に立ち向かえないかもしれません。生きてゆく中で自分の意に沿わない現実に出合うと、反抗期の幼い子供が親の言うことに反抗するように、周囲に悪態をついて文句ばかり言うことになります。
トランプやマージャンのように与えられた前提(ルール)を拒否するとゲームが成立しないように、生まれながらの境遇は不本意の事も多いと思います。しかし、仏教の智慧を学ぶと、仏の教えを憶念して親しい人や友を思いながら、関係性の中で人生を切り拓いてゆく勇気を頂くのです。
「夜と霧」の著者でユダヤ人のフランクルは、過酷な境遇を通して「人生から何かを得ようとするのではなく、人生は私になにを演じさせようとしているのか」と受け止める態度の大切さを強調しています。私を取り巻く状況は思い通りにならなくても、その現実に対してどういう行動をするかは自分の自由であるというのです。
あるがままの事実(境遇など)を、あるがままに受け止める智慧を仏教は教えてくれているのです。それが自然の理にかない、精いっぱいの力の発揮できる道です。世間では「人事を尽くして、天命を待つ」といいますが、仏教では「天命に安んじて(境遇を受け入れて)、人事を尽くす」と受け止めるのです。愚痴を言って不完全燃焼するのではなく、仏の教えを憶念(念仏)することで完全燃焼できる道に導かれます。
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