「今を生きる」第347回   大分合同新聞 平成30年11月5日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(174)
 自我意識は犬や猫にはありませんが、類人猿とされるチンパンジーやオランウータンにはあります。大きく発達したのが人間です。理知分別を尊重する人間中心主義(ヒューマニズム)は産業革命以来、大きく発展して今日の物質的繁栄をもたらしたと考えることができます。
 しかし、その人間は他の動物と比べて未熟(未完成)な状態で生まれてきます。犬や猫は生んだ親が育てても、人間が育てても犬や猫にしかなりません。それは生まれた時に、ほぼ動物として完成して生まれてきているからです。
 真偽の程は不確かですが、動物に育てられた人間の報告があります。人間は誰に育てられるか(環境)によって大きく変化します。外見は人間でも意識や行動に大きな違いが出てきます。それから、類人猿を集団で育てるか、孤立したところで育てるかで自我意識の発達に差があったという報告もあります。自我の発達は、周囲との関係の中で大きく変化するということでしょう。
 人間の教育ということを生涯の課題とした教育哲学者で宮城教育大学の元学長を務めた林竹二(1906〜85)は、「人間について」という授業の中で、「人間に生まれたということだけで人間といえるだろうか」という問題提起をしています。それは、人間としての学びを通して人間になっていくということを述べているのです。
 では、何を学べば本当の意味で人間になったといえるのでしょうか。
 「人間とは何か」ということを考える時、仏教の言葉に「慙(ざん)は人に羞(は)ず、愧(ぎ)は天に羞ず。これを慙愧(ざんぎ)と名づく。無慙愧(むざんぎ)は名づけて人とせず。」というのがあります。慚は自らの見苦しさや過ちを反省して自分の心に罪を恥じること、愧は他人に対して罪を告白して、犯したことを羞恥(しゅうち)する(恥じる)心です。
 これがなければ人と呼ぶことはできません。慙愧心があるということで、初めて人を人として敬うことが成り立つのです。慙愧心がなければ、人間関係を生きていても相手を人として見ることができません(相手を物や道具として見ます)。慙愧心によって人と人との間を生きる、文字通り「人間」たらしめられるのです。

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