「今を生きる」第348回   大分合同新聞 平成30年11月19日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(175)
 仏教では、「多くのお陰によって生かされている」と教えてくれています。植物や動物の生命を奪うことでしか、人は生きることができません、そのことへの「痛み」があってこそ「人間」であり、痛みを失ってしまえば人間とは言えません。(「無慙愧(むざんき)は名づけて人とせず」・慙愧は罪に対して痛みを感じ、罪を犯したことを羞恥する心。慙愧がなければ、人と呼ぶことはできないという意味)。
 慚愧がないことは、畜生という主体性を失った生き方(飼い主に生殺与奪の権利を握られ)、欲に振り回されている存在(餓鬼)になってしまうと教えています。それでは長生きをしても喜べず、空しく過ぎる人生を送ることになるというのです。
 私たちはすでに人間として生まれていると思っていますが、仏教では、多くの「お陰さま」を感じることができて初めて人間と言えるというのです。外見は人間でも、中身が餓鬼畜生のような在り方なら、間柄を受け取れる智慧の目がないと人は傲慢になる危険性があり、相手に迷惑をかけ、苦しめる三悪道(地獄餓鬼畜生)の世界を生きることになるのです。
 「人間」。それは、間柄を生き、あらゆるものと関係をもって存在しています。単独の存在を主張する人は、あたかも真空パックの中にいるようなものです。三分間も経てば酸欠で必ず死を迎えます。
 人間のありさまの過去・現在をあるがままに見ると、父母をはじめ、あらゆる存在の犠牲の上に今、現に存在しているのです。いくら「誰にも迷惑をかけてない」とうそぶいてみても、人は周りに迷惑をかけずには生きて行けません。
 私たちの分別は科学的思考を信条としていますが、戦後の貧しさを克服して物質的に豊かな国になった成功体験から、仏教などなくても生きて行けると傲慢になっているのではないでしょうか。いくら科学、医学が進歩しても、人間は「老病死」をまぬがれることはできません。
 迷いの人生の苦しみを超える仏教の教え、私たちの分別の次元を超えた(異質な)仏の世界に触れることによって、私のあるがままの姿に気づき、目覚めさせられるのです。
 仏の心に触れる時、「人間として生れてよかった。生きてきてよかった」という人生を生きることに導かれるのです。

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