「今を生きる」第349回   大分合同新聞 平成30年12月10日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(176)
 仏教では餓鬼というのは「あれが欲しい」、「これを手にいれたら満足だ」と、いつも取り込むことに執心している存在です。
 約30年前、私は転勤の打診を受けました。しかし、いくら考えてみても、その提示に応じることが自分にとって得だと思えずに迷っていました。それで仏教の師に相談をしたところ、「苦労するだろうけど、受けてみたらどうか」という助言を頂いたのです。
 転勤から間もなく、師から手紙をいただきました。その中に「あなたがしかるべき場所で、しかるべき役割を演ずるということは、今までお育て頂いたことへの報恩行ですよ」という一節がありました。手紙を読んで「ああ、人間になれてなかった。私は餓鬼だった」という衝撃を受けたことを憶えています。
 仏教では私になされた苦労を知る心が「恩を知る」ということだと教えています。当時の私は仏教の学びを続けて十数年経っており、知識として「恩」ということは十分に知っているつもりでした。
 人間は皆未熟な状態で生まれて、まさにおんぶに抱っこで親に育てられ、家族や周りの人たちとの人間関係の中で成長する。そして学校教育で多くのことを教えられ、大学や職場の先輩、患者さんから育てられ鍛えられて医療の仕事がやれていたのです。仏教の師の諭(さと)しは、当時の私の事実を“あるがまま”に言い当てていました。
 私の思いは欲まみれの餓鬼根性そのままでした。私のよりどころにしていた理性と知性は、仏教が指摘するように煩悩まみれでした。他人と比較して優越感や劣等感に揺れ動き、自己中心的な心が背後に潜み、仏教の智慧を学んでも参考意見ぐらいに考えて、自分の思いを通そうという根性でした。まさに慙愧せざるを得ない存在でした(慙愧は罪に対して痛みを感じ、罪を犯したことを羞恥する心)。
 デカルトの「我思う故に我あり」という思考は、人間の理知分別に大きな信頼を置く考え方です。しかしながら、自分の目で自分の目が見えないように、自分の理知分別でその問題点に気付くということは難しいことと思われます。

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