「今を生きる」第353回 大分合同新聞 平成31年2月11日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(180)
長生きには量的と質的という二つがある話の続きです。量的な長生きとはカレンダーで示される(測れる)長生きです。昨年の敬老の日にメディアに公表された百歳以上の方は6万9785人で(男性8,331人、女性6万1454人)で、前年よりも2,014人増えました。
療養型病棟に入院している患者さんで、本人と家族ともに何とか100歳まで生きたいと希望している人がいました。そして「その後は自然にお任せします」という意思を示されていました。昨年7月の下旬に100歳を迎えましたが、意識もうろうとして老年症候群と思われました。8月初めに市長から祝福を受け、その様子が本紙に写真入りで掲載されました。その後は食欲が回復せず1か月後に天寿を全うされました。
90歳以上の超高齢者といわれる人が増えてきています。しかし、大切なことは、本人が長生きを喜んで日々を過ごしているかということです。
80歳を超え、健康そうに見える女性が腰痛で来院しました。病歴などを聞いていると「先生、長生きして何もいいことはないですね。腰は痛くなる、目は薄くなる、耳は遠くなる、そして膝も痛い」と訴えるのです。ちょっと嫌みを込めて、「80才を過ぎるまで、よく腰痛なしで生きてこれましたね。長い間支えてくれた腰にお礼を言いましたか」と聞くと「そんなこと、考えたこともありません」と言われました。
長生き出来たことを当たり前と考えて、100%の健康状態に執着して、どこか悪いところはないかと気にして、症状が出るとその治療を受けながら、完全によくならないと愚痴を言って過ごす長生きをするか。
それとも、日々生きていることを喜び、生かされていることに感謝して、治療を受けながら症状と向き合って生き、生かされていることで果たす役割を自分の使命と受け止め、完全燃焼するが如くに一日一日を精いっぱい生きるか。
寿命の長短の執われを超えて生きる時、自然に「生きることも、死ぬことも仏様にお任せ」という心境に導かれるでしょう。
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