「今を生きる」第354回   大分合同新聞 平成31年2月25日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(181)
 国東市安岐町出身の江戸時代の哲学者、三浦梅園(1723〜89年)は晩年、「人生恨むなかれ 人知る無きを 幽谷深山 華自(おの)ずから紅なり(他人が自分のことを評価してくれなくても嘆くことはない。深山幽谷に咲く花は、誰かに見られなくても精一杯見事な花を咲かせている)」という書を残しています。
 私は「梅園には仏教との接点があったのではないか」と以前から思っていましたが。昨年の梅園学会は「梅園と仏教」をテーマに開かれ、その中で梅園の住んでいた隣の集落(朝来)に臨済宗の西白寺があり、交流があったことが紹介されました。
 最初に紹介した書の言葉は梅園のオリジナルではないそうですが、書中の「華自ずから紅なり」は、「私は私で良かった」という心の表現と受け取る事ができます。おそらく梅園はこの言葉に共鳴したのでしょう。
 宗教の目指す世界は「存在の満足」「足るを知る(知足)」世界だと、ある哲学者が指摘しています。仏語の言葉の「涅槃」には完全燃焼(燃え尽きる)という意味があり、自分の人生を「生き切った」という心が知足(足るを知る)になるのでしょう。
 質的長生きに関してですが、仏教は「今、今日しかない」という実感を大切にします。その「今」を、執われを超え無心に燃え尽きるが如く生ききる時、無量寿(永遠)に抱き取られる世界を味わうのです。
 『論語』に「朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり」があります。これは、「朝に人としての大切な道を聞いて悟ることができれば、その夜に死んでも心残りはない」という意味で、仏教の「今、今日しかない」に通じる心です。
 『歎異抄』の第一章に「『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」という一節があります。これは、圧倒的に大きな仏智の世界に出合うと、いつ死んでもいい、いつまで長生きしてもいい、仏様にお任せしますということです。私が生かされていることで果たす役割を「この世での使命、仏からいただいた仕事」と受け止め、精いっぱい取り組みますという心です。
 そこには、命の長短を超えた「今、今日を生きる」心意気が展開しています。善悪、損得、勝ち負けの小賢しさを超えた仏の智慧がはたらいている世界です。蛇足ですが、この世で仏から頂いた仕事が終わる時、仏のお迎えが来ると言われています。往生浄土して仏に成らせていただくのでしょう。私たちの理知分別からは計り知れない世界です。

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