「今を生きる」第356回 大分合同新聞 平成31年4月1日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(183)
最近、「本当に生きることとは何か」ということをテーマにした研修医の感想文に出会いました。それは以下のような内容でした。
―内科病棟で担当している患者に『どうして私が死ななければならないのですか』とか『私なんてこれ以上長生きしてもしょうがないですから』と言われることがある。私は『そうですね、そう思うぐらい辛いのですね』と紋切り型の返答しかできない。彼らは迫りくる死を、前にして、「自分は何のために生きてきたのか」という問いに取り組んでいるー。
日本人にとって、都度ごとに自分の人生を振り返り、意味づけを行うことは相当難しいようです。患者本人は『本当に生きる』意味を見い出せずに衰弱し、意思疎通出来なくなっていきます。家族は黙ってその姿を見ている罪悪感に耐え切れず、最大限の医学的治療を求める。そして医療者は回復の見込みが薄く、生命の質(QOL)向上に役立たない治療を余儀なくされます。
家族と医療者は患者のように死を前にした苦痛を感じていないし、日頃からわざわざ『本当に生きる』意味を考える時間も必要もありません。だから患者は本当に生きる意味を一人で探さねばならず、私たちはその姿に戸惑いながらも寄り添うことしかできないのです。
最期に患者が亡くなると、医療者は『〇〇さん、亡くなりましたね。頑張りましたね』などと言い、本当に生きる意味を考えることから逃げます。日本の終末期医療には患者本人ではなく家族の満足度を上げるための消耗戦の一面があるとかんじます。
日本での臨床宗教師(終末期の人の精神的な支援をする宗教者)の制度の創設に大きな貢献をし、自身も進行した胃がんとの付き合っていた宮城県の岡部健医師(故人)は「日本の文化はいつの間にか死に行くものへの道しるべを失っている」と述べています。この課題解決に向けて、宗教界への期待を寄せています。
患者さんが老病死に直面した時、「私は誰なのか」という実存的な課題に向き合うことを余儀なくされます。この人間として生まれた意味や生きる意味(物語)、死んでゆくことの意味などには科学的思考では対応できせん。哲学や宗教的思考が求められるのです。
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