「今を生きる」第357回   大分合同新聞 平成31年4月22日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(184)
 4月8日はお釈迦さんの誕生日で仏教寺院では「花まつり}としてお祝いをします。しかし、仏教国といわれる日本では花まつりよりキリストが誕生したクリスマスの方がにぎわっています。この差は何を示しているのでしょうか。
 宗教の多様性を受け入れる日本人の寛容性を示すといわれています。しかし、日本人の多くが科学的合理主義という信仰にどっぷりと漬かってしまい、宗教に対して無理解と無節操になっていることが関係しているかもしれません。かって経済的利潤の追求を第一目的にする日本人を揶揄して、諸外国から「エコノミックアニマル(経済的利益を求める動物)」といわれたことは的を得ているのかもしれません。
 仏教では、私たちの日々の心の状態を「六道」(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天界)として表しています。「地獄」とは互いに傷つけ合う状態を表し、「餓鬼」は生かされていることを当たり前、当然のこととしていて不足不満ばかりを言うこと、「畜生」は飼い主の顔色をうかがうペットのように、欲に振り回されて世俗の流行に流される主体性のない生き方のことです。
 仏教では、せっかく人間に生まれながら餓鬼・畜生の心のまま人生を終わることを「空過流転して痛ましい」といいます。逆に、なんとか人間になって欲しいという如来の願いに目覚めた存在を菩薩・仏といいます。
 前回、老病死に直面した末期がんの患者さんが「生きてきた意味」や「生きる意味」を問題にして戸惑っていると書きました。地獄・餓鬼・畜生のままでは、生きることの意味を考えることもなく迷い続け、苦悩するしかないことを仏は見透しているのです。ここでいったん立ち止まって、「人間とはどういう存在なのか」と考えてみようというのが仏教の問題提起です。「人間として生きることを考えることも大切ですが、人間として生れた意味も考えてみてください」と勧めてくれるのです。
 仏教に出合った人は「人間として生れてよかった。生きてきてよかった」としみじみと人生を味わうのです。「生きてきてよかった」というのは現在完了形の表現です。それは「過去から現在までが完了してよかった」ということで、それは生身が尽きるまで継続するのです。
 次回からは人間に生まれる意味、物語を仏教に尋ねてゆきます。

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