「今を生きる」第358回   大分合同新聞 令和1年5月13日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(185)
 人間が生まれる機序(仕組み)は生物学や医学でかなり解明されてきて、不妊症の治療にも応用されています。しかし、「人間に生まれた意味はどう受け取ればよいのですか」と質問されても生物学者や医学者は「その疑問に答えるのは私たちの領域ではありません」と答えるでしょう。
 科学は英語の疑問詞「what(何)」「how(どのように)」で始まる疑問文に答えることは得意でしょうが、一方で「why(なぜ)」に関しては「なぜ人間に生まれたのか」というような、人間に生まれた意味や物語に関する問いには答えることができないでしょう。
 「生れた意味、生きる意味、死んでゆくことの物語などはない」と考え、その思いにとらわれる人には、仏教は意味のない不要なものでしょう。科学的思考だけで人生(老病死を含めて)を全うできる人には、宗教的救いは必要ないと思います。
 医療・看護・介助に関わる職種で科学的思考の人生観、価値観だけしかもっていない人は、老病死に直面して悩む患者さんがいたとき、相手に寄り添うという対応はできないでしょう。
 今までは患者の老病死の悩みに「それは私的関心事の問題です。医療者の関わる領域ではありません」と切り捨てる傾向がありました。しかし、人間的な課題に関わるような職種の人の中には「それでは充分に対応できてない」という思いを心のどこかで感じているでしょう。
 医師、看護師は「師」の名称がついています。教師もそうです。これは、人生の課題に対して指導的に対応することが期待されているからではないでしょうか。その領域が不得手であれば、それが専門の職種の人とチームで対応することが求められます。
 現在、日本の医療現場では医師一人の医学知識や経験だけで医療を行うのは難しいでしょう。医療機関では、さまざまな職種とチームで対応することで力量が発揮できるのです。さらに宗教者も一緒になって悩む患者に関わろうというのが臨床宗教師の制度です。
 臨床宗教師は、特定の宗教や宗派の説教、布教をすることは倫理規定で禁止されています。患者の悩みに寄り添うことが目的です。回復が難しい状態に直面しても、患者に寄り添いながら心が救われる方向に一緒に歩む宗教者が求められているのです。

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