「今を生きる」第359回   大分合同新聞 令和1年5月27日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(186)
 世界宗教(地域、民族、社会を超えて広がった宗教)といわれるものは、人間の誕生の意味や物語をさまざまな教えで示しています。しかし、宗教学者は「全ての人を納得させる普遍的のものはない」と言います。人間として生れた意味を教える物語は仏教でもあり、私もいくつか聞いたことがあります。その中から「なるほど」と思った物語を紹介します。
 中国で浄土教を花開かせた善導大師という僧がいます。日本で浄土宗を広め、智慧第一(秀才)と言われた法然が「善導大師が仏教の師です」と語ったとされる人です。法然は中国に渡っていませんので、留学した僧が持ち帰った善導の著書に強い影響を受け、日本の仏教に大きな変化をもたらした。
 善導の著書「観経疏」の中に、「既に身を受けんと欲するに、自の業識(ごっしき)を以て内因(ないいん)と爲し、父母の煙撃以て外縁(げえん)と爲す。因縁和合するが故に此の身有り」というのがあります。訳は「私たちがこの世に生まれ出ようとするときは、自分の意志で『生まれたい』と願い、父と母になる人を縁として誕生します。自分の意志が根にあり、両親はきっかけにすぎない」という意味です。
 「自分の意志で生まれたいと願った」と言っても、本人にはそんな記憶は全くありません。仏の智慧は理知分別では説明できない、物の背後に宿されている意味を見透かしてそう伝えているのです。そのことで私たちは仏の智慧や悟りが理知分別を主体とした私たちの世界とは質が異なっていることを知らされます。
 江戸時代の曹洞宗の僧侶・良寛の言葉に「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、これはこれ災難をのがるる妙法にて候」(訳・災難に遭ったら災難を受け入れなさい。死ぬときが来たら死を受け入れなさい。これが災難に遭わない秘訣(ひけつ)です)という言葉があります。
 現在の私たちの思考では「結局災難を逃れてないではないか」と考えるでしょう。良寛はあるがままをあるがままに受け入れ、それでも生きていくことを伝えているのです。
 理知分別を主体として科学的思考を中心として日本の学校教育で育てられた考え方では、仏教の世界を受け取れません。異質な教えに出合ってみて、自分の思考の殻(限界)を知り、限界を超えた世界に驚かされるのです。

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