「今を生きる」第361回 大分合同新聞 令和1年7月1日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(188)
人間はいろいろな分子や成分によって組織や臓器が作られ、神経や血管などの見事な連携で構成され、生命活動が維持されています。人体は植物、動物の「いのち」を頂いて生きるための栄養として取り込んでいます。そして、空気中の酸素を肺から取り入れてエネルギーなどを合成しています。まさに無数の因や縁の集合体としての私はあらしめられています。
過去の私はどうであったか。仏教では、私が生まれてから今日までは因縁の集合体として継続してきたと考えます。今後も生きている限りは集合体としてありうが続くと想定します。
生まれる前や、死んでから先はどう考えるか。仏教の縁起の法によって,生まれる前も死んでからも、形態は違っても因縁の集合体として受け止めます。
ただし、今、ここから過去の自分の写真を見るような在り方とは全く異なったありよう(形態)であろうと想定します。想定する過去や未来の因縁の集合体の基本の部分を「識(心の深層の働き、動き)」として表現しているのです。
本紙「今を生きる」蘭の第359回で述べた「自の業識」とは、過去と密接な関係のある何らかの因縁の集合体として私のありよう(識)」ということです。
仏教の思想である唯識(ゆいしき)では意識(心)の内面、見えない部分を思索して、末那(まな)識、阿頼耶(あらや)識という深層心理として表現しています。西暦300年前後になされた仏教の深い洞察に驚くほかありません。
過去と同様に未来も因縁の集合体としての存在を想定しますが、われわれの自我意識の想定の外にあるような存在と受け止めます。私の理知分別の自我意識からは、未来は全く分からないという意味です。
仏の光に照らされた私は愚かで迷いを繰り返して来た凡夫と知らされてきます。その愚かな迷いの私を「自の業識」、“迷いの主体”と表現したのです。
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