「今を生きる」第362回   大分合同新聞 令和元年7月22日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(189)
 私たちは、目に映る物を見て「これは何々だ」と認識します。見えている対象物も、それを見ている自分の目も、いずれも物質で構成されています。物質と物質が対面することで、そこに意識、仏教で言う「眼識(げんしき)」(目によって対象の形状、色彩などを識別する作用)が起こるのです。
 仏教では、対象を認識する心の働きを表す意識作用を6種類、あるいは8種類に分けて認識します。
 「識」とは仏教の認識論・存在論の基本概念とされ、常に変化し続ける心のありようのようなものです。
 私の意識が形成される前からの過去の因、縁の集合体を「自(みずから)の業識(ごっしき)」と表します。仏の智慧(無量光)に照らされた愚かな私の因は、迷いを繰り返してきた存在(自の業識)と認識されます。仏智によって迷いの底知れぬ深さを知らされた人は、迷ったまま存在することを潔しとせず、迷いを超える智慧を自然と志向するでしょう。
 仏の智慧に出合い、愚かな迷いの連鎖から解脱することが仏教の道です。そのためには、まず自の業識が人間に生まれることが必要です。縁が熟し、幸いに人間に生まれたということは聞く耳、考える能力を賜ったと受け取るのです。
 仏教では、せっかく人間に生まれながら欲(煩悩)にまみれた生活をしていると、地獄・餓鬼・畜生の状態に陥ると指摘します。これでは迷いの解決がつかず、空過流転(空しく過ごして迷いを繰り返す)することになるでしょう。長年の迷いを超えるためには、仏法に出遇い、仏の心を受け取ることが求められるのです。
 縁が熟して仏教に出遇い、自分が愚かで迷いを繰り返していることに目覚め、仏教の学びを続ける中で、思いもしない過去のありようの物語を知らされる。ただこの過去の物語は客観性のある歴史的な事実ではありません。仏の智慧との出合いから気付かされるものであり、受けとめた過去を潤いのある展開へと導いていくのです。

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