「今を生きる」第364回 大分合同新聞 令和元年8月19日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(191)
50年ほど前、私と同じく団塊世代のある大学生が「私は両親の快楽の犠牲者であり、親への恩などない」と語っていました。自分の人生の出発点を被害者意識のような意識で受動的に感じてしまうと、その後の人生の歩みが主体的になりにくいと思われます。
これが念仏によって救われた人は、自分の誕生を全く違ったものに感じます。
迷いの主体である「自の業識」の存在(私)が迷いを超越するために、人間として生まれ、次に仏法に出合うことが大事になります。そのため、多くの男女に「自分の親になって欲しい」と頼み、たとえ全て断られたとしても、それでも頼み続けるのです。
そして、「それほど人間に生まれたいのなら、あなたの親になってもいい」と言ってくれる両親と巡り会い、縁が熟して、やっと人間に生まれさせていただける。「だからこそ、親には感謝しても感謝し尽せない」と感じるのです。
仏の心に触れてみると、自分の誕生を納得できるものとして受け取ることができます。
このような味わいは、生まれる前の歴史的、生物学な事実を言っているわけではありません。
仏の智慧に照らされて、自分の愚かさ、迷いの深さを実感する時、その目覚めの中で、おのずと仏の世界を志向するようになります。迷いにとどまるのではなく、私を照らしてくれた智慧の方向へ促されるのです。人間として生まれ、生きることの意味、そして死ぬことの物語などに気づき、受け止めることができます。
仏の智慧と慈悲に包まれた歩みをする者は「人間として生まれてよかった。生きてきてよかった」と念仏するのです。「天命に安んじて、人事を尽くす」といったように、仏さんから頂いた仕事として無心に向き合い、取り組む…。その先は自然と仏にお任せなのです。
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