「今を生きる」第365回   大分合同新聞 令和元年9月2日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(192)
 尊敬する仏教者がお寺に生まれて、お参りするおじいちゃんやおばあちゃんに可愛がられたので、幼いころはお寺の雰囲気が好きだった。しかし、物心ついてからは自分の生まれた境遇が嫌で、どうしたら抜け出すことが出来るかと考えるようになり、よく父親と口論をしたという。
 その父親との摩擦の中で、「頼みもしないのに、親が勝手に生んで……」と文句を言ったら、父親に「親が勝手に生むことが出来るのなら、お前みたいなバカな子は生まなかった」と言い返された。後から考えると、親も偉かったと思ったそうです。
 私たちの普通の思考に、「子どもは親を選べないし、親も子供を選べない」という現前たる事実があります。人間に生まれることも、その後生きていくのも思い通りにならない事が多い。私も70歳を過ぎて自分の人生を振り返る時、自分が描いたように進まなかったことが圧倒的に多いように思われます。お釈迦様は、生老病死の四苦八苦の人生だから「人生苦なり」と言われたのでしょう。
 しかし、釈尊は修行や瞑想によって苦の連鎖を超える、苦から解脱する道に目覚めたのです。苦の連鎖を超える道への目覚めこそ、釈尊の一大事であったのです。それは、人間を苦悩から救う道だったからです。その目覚めの内容が「不死の法を得たり」との表白になり、その法則、道理が仏教として伝えられているのです。
 仏教に救われた者は、釈尊がこの世に誕生したのはこの法(道理)を説くためであったと感動するのです。この「出世本懐の(そのために生まれたという)教え」を説かんがために、釈尊はこの世にお生れになったのだと称讃するのです。
 同じように、私がこの世に誕生したのは出世本懐の教えに出会うためだったと喜べるのです。仏教界で出世本懐の教えと言われているのが「法華経」と「仏説無量寿経」です。

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