「今を生きる」第366回   大分合同新聞 令和1年9月23日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(193)
 私たちの人生の目的は「健康で長生き」や「幸福」と思いがちですが、お経(仏教)の学びの中で、それらは老病死に直面する中で実現不可能な夢、幻であることを実感するでしょう、そして人生の真の目的は迷いや苦の連鎖を出ることではないですかと目覚めを促すのです。
 中国の僧、曇鸞は仏教を学ぶためには健康で長生きしなければと長生きの仙術を学び、会得したのです。そしてインドから仏教を学んで帰国した僧に、「不老長寿の仙術に勝る仏教はないだろう」と自慢げに問いかけたのです。すると「いくら仙術で健康で長生きしても、死の前には崩れ去るしかないだろう」、と目覚めを促(うなが)されたのです。そして迷いの連鎖や四苦八苦を超える仏教に目覚めないと本当の解決にはならない、とお経を手渡たされたのです。そのお経によって仏の心に触れた曇鸞は、持ち帰った仙術の書を焼き捨てたと伝えられています。
 医療と仏教の学びを通して思うことは、医療は確かに老病死を数年先送りはできるけど、最終的には死を免れません。仏教は生老病死の四苦を超える道、すなわち迷いや苦の連鎖を超える道を教えているのです。
 仏の無量寿の世界を受け取る者は、論語の「朝(あした)に教えを聞かば、夕べに死すとも可なり」のように、無量寿(仏の世界、死なない真実)に出合うと、「それがあれば、私は死んでいけます」という感動を感得するのです。「それがあれば、私はどんな苦難の人生でも生き抜いていけます」という世界です。
 私がそれによって死んでいけるのも、それによって生きていけるものはいったい何か、という問いに答えるのが本当の宗教(気づき、目覚め、悟りを教える世界宗教)と宗教哲学ではいわれています。
 私が小賢しく、自己中心的に救いや幸福を目指していた、その小賢しい自我意識の思考の内実の問題点、煩悩性を仏の智慧(無量光)で暴き出して、生きる姿勢を正し続けるように導く仏教です。

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