「今を生きる」第368回   大分合同新聞 令和1年10月21日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(195)
 西洋人と同じ発想で考える現代の日本人と、鎌倉時代を生きた人とでは発想が違っていただろうと思われます。なぜなら、現代の日本人は教育を通して科学的合理思考の訓練を受けてきたからです。
 そういう人たちが仏教文化に触れると、仏教の悟りや目覚めの世界は社会通念とは異質なものに感じます。内容を知れば知るほど、「人間とは」「人生とは」「この世界とは」といったことを仏教が見通していると驚かされるのです。
 自分の考えは間違いがない……。そのような自我意識は仏の智慧によって、決して合理的なものではなく、局所的、表面的にすぎず、物事の全体が見えてない表れということを思い知らされます。
 「自分の常識が正しく、仏教の教えの方がおかしい」と思っていても、仏教を学ぶうちに、「自分の方が煩悩まみれの眼で見たり、分別して理解しようとしたりして物事の全体像をよく見ていなかった」と分かってきます。長期的な視点、俯瞰(ふかん)的な思考ができていないことに気付かされるのです。
 ある哲学者は「人間は皆、幸福を目指して生きている」と言い当てています。誰もが人生において幸福になるためにプラス価値を増やし、マイナス価値を減らそうとします。
 しかし、年老いて病気になり、挙げ句に死んでしまったら、自分の家族は「この度は突然のご不幸にお悔やみ申し上げます」という言葉を掛けられることでしょう。幸福な人生を目指したのに、死ぬと「ご不幸」にされてしまっているのです。
 科学技術は進歩を遂げ、さまざまな分野で研究が続いています。寿命をつかさどる遺伝子を操作できるようになる。動物を使って移植用の臓器が遺伝子操作で作られるようになる、義肢・義足が脳波によって動くようになる。こうした可能性が言われています。ただ、人間の寿命はさらに延びると見込まれていますが、医学者や生命倫理学者からは「長寿が実現した社会で最も多い死因は自殺」という予測も出ています。
 思慮深い合理的思考の人間は「生まれた意味」「生きる意味」、そして「死」を、仏智によらず、どう考えていくのでしょうか。

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