「今を生きる」第371回   大分合同新聞 令和1年12月2日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(198)
 我々が日常の生活を送る中で、自分の人生に限りがあるなどということを考えることは、ほとんどありません。
 まれにですが、布団に入って眠りにつく時に、(1)今ここで自分の命が消滅しても、世界は何事もなく進んでいく(2)自分が存在していた事実は時間と共に進むこの世界では跡形もなく消えてしまう(3)自分が消滅した後の世界を見ることは絶対にできない、ということに気付き、慄然(りつぜん)とすることがあります。
 自分が死ぬのが恐いのは生物学的生存本能があるからだと割り切っても、死が恐ろしいことに変わりがありません。
 この文章は、仏教学者の佐々木閑(しずか)・花園大教授が講演で紹介しました。ノーベル賞を確実視されながらも、病で死去した物理学者が、大腸がんの治療を受けていた時の心情を吐露したものです(「がんと闘った科学者の記録」立花隆編)。
 科学者は自分を中心に外の世界を観察し思考することで真実を究めようとしますが、その思考の中に自分は含まれていません。
 一方で、仏教は日本の文化において、自らの内面を思索する「内観」の領域で貢献したとされます。
 釈尊は世俗では恵まれた王族でしたが、自分が老病死する現実に苦悩し、その解決を求めて出家修行をされました。そして四苦(生老病死)を超える道に目覚めたのです。その教えに救われる人が次々と誕生していき、仏教は時代、社会、地域を超えて伝わってきました。
 この物理学者も「自分は死する存在」という現実に目を向けることなく、外の世界を研究して現代の知の頂点を極めました。しかし、自分の大腸がんに直面して初めて生身を持つ自分と向き合っていったのです。
 先の書籍には、「人生が終わるということを考えないように気を紛らわせるしかない」という彼の苦悩が赤裸々に書かれています。

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