「今を生きる」第372回   大分合同新聞 令和2年1月13日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(199)
 仏教の存在意義とは何か―。そんな問いに対し、親しい僧侶は「この世の道理で解決できる問題はこの世の思考でやればいい。この世の思考では解決できない問題の救いを実現するのが仏教である」と言い切りました。私は「なるほど」と納得できました。
 自分が担当した患者に、80歳を過ぎて慢性肝炎から肝硬変になった男性がいました。大分大病院の医師に3か月に1回のペースで診察を受けながら、私の病院でも治療を続けていました。週3日の治療を欠かさず来院していましたが、平均寿命を超えてなお元気でいることを喜ぶというよりも、将来がんになることをとても心配していました。
 診察時間に余裕ができたある日、世間話に続いて「仏教の勉強をしてみませんか」と勧めたことがあります。家が浄土真宗と話すので「念仏の心に触れると、もう少し鷹揚(おうよう)に生きることができますよ」と伝えたところ、「仏教を勉強するのはまだ早い。訳の分からない『南無阿弥陀仏』だけは言いたくない。浄土なんて世界地図のどこにもありませんよ」と言われました。
 長生きするために、日常生活でも人一倍健康に気を付けていた方でした。しかし、85歳を過ぎて肝臓がんを発症しました。専門医と相談した上で、内科的治療を続けながら経過を見ていくことになりました。
 しばらく小康状態が続きましたが、私と話していた時に「運命だ。諦めるしかない」と語った姿が印象に残っています。彼は90歳まで生きることはできませんでしたが、「老・病・死」の現実に直面しながら、さまざまな姿、心の変化を診察室で見せてくれました。
 ただ、「訳の分からない南無阿弥陀仏は言いたくない」という理知の矜持(きょうじ)があったのなら、それこそ訳の分からない「運命」という言葉を語ってほしくはなかったと思うのです。
 自分の思いだけを信じる自我意識は、自らの「人生の責任者」の役割を健気に果たそうとしますが、最終的には愚痴をこぼしながら「運命に身を任せるしかない…」と言ってしまう。自分の身体の責任(管理・支配)をこの世で全うすることは難しいことなのです。

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