「今を生きる」第374回   大分合同新聞 令和1年2月17日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(201)
 自死してでも守ろうとする自我意識とはどういうものでしょうか。
 仏教における「縁起の法」では、「私」という存在はガンジス川の砂の数ほどの因や縁が和合し、自我意識を存在せしめていると教えています。それは一刹那(極めて短い時間)ごとに生滅を繰り返し、常に変化する現象のようなものであり、これを仏教では「無我」と呼んでいます。
 生物学的には人体の組織が壊れていくことを避けられない性質(エントロピーの法則)があします。ただ、体内では細胞群の一部を壊し、それを再合成して生命を維持していることが分かっており、これは分子レベルでも実験で証明されています。縁起の法が教える「一刹那ごとに生滅を繰り返す」ということと一しているのです。
 固定した「私」という存在はなく、常に変化を続けながら、そして一定の条件下に限って存在できる現象のようなものー。仏教が教える生命の在り方について、生物学者は「動的平衡」と表現しています。
 「死ぬのは嫌だ」、「自我が壊れるのは嫌だ」と思っていても、本来は壊れることが当たり前にもかかわらず、無我としての存在を「固定した確かな自我がある」と考え違いをしているのです。存在しないものをあると勘違いし、それにたらわれていると、仏教は教えようとしているのです。
 このように「私を私たらしめている心こそが私だ」と思いたいところですが、私たちの感情は次から次へと状況次第で変化するものであり、すなわち「無我」「無常」ということを表しています。
 自死してでも守ろうとする自我意識というものは、本来は「無」なのです。夢、幻のような自我にとらわれている私だったのです。

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