「今を生きる」第375回   大分合同新聞 令和2年2月3日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(202)
 われわれは、私を私たらしめている部分は心・意識だと考えています。そして、物事に対処する際、変わらない信条、価値観を胸に秘めて、自分らしさを貫きたいと思っています。
 仏教文化には、その「心」(意識)に関する思索の蓄積が唯識思想として伝わっています。表面的な意識とは別に、深層心理として末那識(第七識)、阿頼耶識(第八識)があるというものです。
 唯識とは仏教の基本的な考え方で、個人にとってのあらゆる存在が、唯(ただ)、8種類の「識」によって成り立っているという見解です。
 外界のものを感じる感覚器官である五官(目、耳、鼻、舌、身)から視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚によって情報が集められ、意識(第六識)がそれらを統合して判断する。一連の情報は二層の無意識の領域に蓄えられますが、それが末那識と阿頼耶識です。
 阿頼耶識は「蔵識(ぞうしき)」とも呼ばれ、過去の経験の蓄積といえます。そこには自己中心の思い(煩悩)領域である末那識を経由して出たり入ったりします。英語でself-centered(自己中心的な) calculation(計算)と訳されるように、末那識では私にとって損得、善悪、勝ち負け、優劣などを常に計算しています。眠っている時は休止していますが、目が覚めると同時に働き始めます。
 心には状況に応じて喜怒哀楽が起こります。阿頼耶識に蓄えられた情報が外からの刺激で触発されて、表情や態度に出ると考えられています。私の心は煩悩で脚色されていますから、縁次第では様々に変化するのです。
 このように、意識も固定したものではない、つまり無我である、と仏教は教えています。縁によって変化する心を私と思うから感情に振り回されて苦しみ、不安になってしまうのです。本来は無我であるにもかかわらず、「ない」ものを「ある」と勝手に思い込み、その幻影に振り回されることは愚かだというのです。
 感情に振り回されることなく、私の心に距離を置いて、仏の視点で見るー。その繰り返しの中で、仏の教えが真実であり、私の思いは迷いであったと受け取れるようになるのです。

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