「今を生きる」第376回   大分合同新聞 令和2年3月23日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(203)
 無我……。多くの人は「無我の境地」などと悟りの心境のように考えがちですが、お釈迦さんは仏教の基本である「縁起の法」において、目覚めや悟りの内容を「全てのものは単独で存在しているのではなく、関係性を持っている存在である」と教えています。周囲と何の関係を持たずに単独で存在できるものはない、という意味です。
 世間で言う無我の境地とは多くの場合、「忘我の境地」です。我を忘れて何かに没頭していることを意味します。その証拠に、没頭していたことが終わるとすぐ迷いの「私」に戻ります。
 われわれは「存在する」ということを、「今、私は確かにこの部屋に一人でいる。目の前の机も間違いなく単独で存在しているではないか」と考えます。しかし、これは物事を対象化して客観的に見ているつもりで「存在している」と言っているのです。
 ここに出てくる「私」「部屋」「机」はいずれも周囲との関係性や構成する材料、作った人などとは無関係ではありません。「私が自力で生きている。人の世話になっていない」と強がったとしても、それは「真空パックの中に居る」と主張するようなものです。
 私が初めての所で自己紹介をする際は、住所、勤務先、家族、受けてきた教育、職業、生年月日、宗教、趣味といった「属性」と言われるものを説明します。とはいえ、それらは私の外側のものであり、私自身の内側の意識、心というものではありません。
 「自分の心や意識こそ固定した私(我)」と言いたいのですが、心は常に変わり、意識も変化します。「これこそが私」と固定して示せるものはありません。そうした在り方が「無我」であり、関係性の中で常に変化していく在り方を「無常」というのです。
 科学的に言えば、植物・動物の外観は変化していないように見えても、物質や分子レベルでは常に出入りが起こって平衡が保たれているのです。
 われわれは因縁和合して一時的現象のように存在(無我)するものを「有る」と考え、それに固執してしまいます。私や私の物があると思うために、それを失うことを嫌がったり、恐れたりするのです。苦悩をなくすためには「あるがままをあるがままに」という仏の目、悟りの視点で、クールに受け止めることが大事です。

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