「今を生きる」第377回   大分合同新聞 令和2年4月6日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(204)
 「新型コロナウイルス感染症に対し、仏教者はどのようにして生きればいいのでしょうか」先日、友人の医師からこんな相談がありました。それに対する私の返答を紹介したいと思います。
 仏教の救いは「二の矢を受けない」が原則です。
 自分を含めて、病気になった人のことを思い浮かべて下さい。さまざまな症状が自分を苦しめ、さらに「良くはならない病気ではないか」「死ぬかもしれない」などと悩み、とても不安になります。病気をきっかけに「病の苦しみ」と、それに付随する「とらわれる悩み」という二重の苦悩を味わうことになります。
 一部の心の病を除き、仏教は医療と競合し、病気を治療する領域に関わるものではありません。医療者を信頼して身を任せればストレスが軽くなり、アドレナリンの分泌も抑えられ、自分が持つ免疫力が十二分に発揮されることでしょう。
 仏教は病気から人を救うのではなく、病人を丸ごと救うのです。仏教の「救い」とは世間的な救い(経済的、社会的、医学的)とは質が異なります。あるがままをあるがままに受け取り、与えられた状況を「これが私の引き受けるべき現実だ」と仏にお任せし、今日を精いっぱい生き抜くのです。
 仏教の師から「浄土の教え」(南無阿弥陀仏)をいただく者は朝、目覚めると「今日の命を頂きました。南無阿弥陀仏」でスタートし、夜に就寝する時に「今日も私なりに精いっぱい生きることができました。南無阿弥陀仏」で一日を終えます。日中は「思い出すたびに南無阿弥陀仏と念仏しなさい」と教えられます。
 仏教の基本である「縁起の法」は、死に裏打ちされて生があることを意味する「生死一如」を教えています。仏の智慧(ちえ)で物事を見ましょう、というのが浄土の教です。仏の智慧を頂くことを「信心を頂く」と言います。南無阿弥陀仏と念仏する時、私が仏の働きの場になるのです。今を、そして今日を生かされていることの「有(あ)ること難(かた)し」を念仏して受け止めていきたいものです。

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