「今を生きる」第380回 大分合同新聞 令和2年5月18日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(206)
臨床の現場では進行癌のため回復が望めなくなり、種々の苦痛に対して緩和ケアを受けている患者さんがいます。その人達から発せられた「私は死ぬために生きているのですか」「良い生活はしてきたけれど、本当に生きたことがない」というような、いわゆる魂の苦悩が「スピリチュアルな痛み」と表現されています。このスピリチュアリティ(spirituality)に相当する適切な日本語がないために、そのまま外来語として使われています。
人間として生れて、病苦の中で生きていく意味を見いだせず、死によって自分の生きてきた過去が無になってしまう虚しさを感じての表白でしょう。
将来の希望に燃えている時には問題にならなくても、現代の医学が準拠する科学的合理思考では、治癒不可能な病状に直面した人が生きる意味を見出すことは困難でしょう。腎臓ガンのために49歳で亡くなった従兄弟の「明るい未来が見えない、ということは居たたまれないんだ」という言葉が耳に残っています。
唐の時代に中国浄土教を確立した善導大師は、「自らの業識(ごっしき:生まれたいという自分の意志)を内因として、父母の精血を外縁として、因縁(内因と外縁が)和合して私は人間に生まれた」と言っています。自らの愚かさに目覚める者はそれまでの迷いの連鎖を知らされ、その迷いを超えるために人間に生まれ仏教に出遇って、迷いから解脱するために、この世に生を受けたと頷けるのです。それなら、生きる意味というのは迷いを超えて動物的な「ヒト」から人間になり、迷いを超えた仏に成るという意味として受け取れるようになるでしょう。
しかし科学的合理思考では「私の人生は一回だけなので死んだら終わり。だから、生きているうちに、楽しいこと、心地よいことをするしかない。私が幸せになることが、人生の目的である」というように、虚無主義と快楽主義と個人主義が複雑に絡みあった人生観になります。そして「私たちの世界はすべて物質に還元可能で、生命を構成する物質が集積したときに「生」があり、それが分散したときに「死」がある。
ただそれだけのことで、生きていることに意味はありません。生きていること自体に意味がないのに、その質(Q.O.L、quality of life)を問う必要はないという唯物論的な近代科学の見方が追い討ちをかけるのです。
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