「今を生きる」第383回   大分合同新聞 令和2年7月6日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(209)
 「お前も死ぬぞ 釈尊」。仏教伝道協会「お寺の掲示板大賞」の一昨年の大賞作品となった標語です。新型コロナウイルス感染が近隣で報告されたとき、高齢者の私も「死」が頭をよぎりました。朝、目が覚めたら「今日の命を頂いた、南無阿弥陀仏」と称えます。風邪症状も倦怠感もない。それなりに元気なのは「有ること難し」と念仏していました。
 仏教では「悟りを開いても、病気になる、ならないは関係ない」と前に書きました。それでは、人間の生老病死の四苦を救うことにならないのではないかと思われる人が多いと思います。仏教は老化現象、病、死に関係なく、人間を丸ごと救います。生死(しょうじ)の苦の本(もと)を抜くというのです。
 仏教の智慧は物事をあるがままに見ます。人間は多くの「因」や「縁」によって生かされている存在です。「形あるものは必ず壊れる」すなわち「死」の法則を免れることはできません。あるがままとは、死ぬのが必然のところを「有ること難し」で今日を生かされているということです。
 自我意識は3歳ぐらいまでに出てくるといわれています。「身」が先にあり、後から出てきた意識は本来、物事を認識する働きをする所です。身についての正しい認識をする「場」なのです。ところが、いつの間にか身の「主(あるじ)」のようになって管理支配するようになっています。身は本来「縁起の法」の沿って動いていて、老い、病む、死ぬということが起こるのです。
 仏教標語に「心に従うな、心の主となれ」があります。心は事実を認識する立場を忘れて偉くなって、いつの間にか身の管理者になろうとしているのですが、結果は欲に振り回される奴隷になっています。心も「法」に沿って一瞬一瞬変化していて無常・無我です。心の動きからちょっと距離を置いてクールに見る「主」に成れと教えています。身の置かれている状況をあるがままに見て、老、病、死は私に何を教えよう、目覚めさせよう、演じさせようとしているのかと考える。それが迷いの苦の本を抜くことになるというのです。
 冒頭の標語の「死ぬぞ」とは、死を忘れ、考えないようにしているわれわれに「目を覚ませ!」と迫って、死を超える安心(あんじん)を与えようとしているのです。

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